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パブロ・ピカソ

20世紀最大の画家 パブロ・ピカソ 1881~1973年

肉筆作品からセラミック(陶器)、オリジナル版画まで豊富に

ピカソ絵画販売サイトでは肉筆画、銅版画、セラミック、オリジナル版画まで幅広く取り揃え販売しております。
絵画販売サイトに掲載されている絵画は、翠波画廊にご来廊いただければ、現品をご覧いただけます。

ペン・墨・紙

「女性の肖像」

1971年 15.9×21.2cm

クロード・ピカソ鑑定書付

ピカソ晩年の本作は、親しい方へ贈られるために描かれたと思われる献辞つきのドローイングです。素早い線で迷いなく描写された女性像は、すっきりとして明るく、温かみを感じさせます。

セラミック

「顔 No.202」

1963年 φ25cm

ピカソの了解を得て、陶工の手によって一定数作られた複数制作陶器『エディション・ピカソ』。1947~1971年のセラミック全作品を網羅したアラン・ラミエカタログレゾネNo.495に掲載。翠波画廊では、南仏のマドゥーラ工房でピカソ監修のもとに作られたセラミック(陶器)をご紹介しています。

銅版画

「ゴンゴラの詩:心われにあらざるを悲しみて」

1948年 38×28.5cmx2

16世紀スペインの詩人ルイス・デ・ゴンゴラのソネット20篇を、ピカソがすべて自身の手写で収録、挿絵を加えた作品。ブロック編纂のカタログレゾネ第1巻に掲載。翠波画廊ではレゾネに掲載されているオリジナル版画を扱っています。

リトグラフポスター

「ポスター:コートダジュール」

1962年 リトグラフ 95×63.6cm

リトグラフポスターは、芸術作品として制作された作品として、コレクションされる方も多い版画です。

真贋には細心の注意を


全作品を網羅したカタログレゾネに
掲載された作品を扱っております
例)アラン・ラミエ編纂セラミックのレゾネ

ピカソの制作意欲は旺盛で生前に残した作品は版画だけでも10万点、その他油彩、水彩、セラミック(陶器)、彫刻などで5万点近くと言われています。作品が多いということは傑作の数も多く、常にオークションで取引されたり、人目に触れて話題になることで、価値が高まり、ピカソ作品を一枚は持ちたい、というお客様は後を絶ちません。
ピカソの作品を創業以来1000作以上販売実績のある翠波画廊では、ピカソの生前に作られた版画(オリジナル版画)と限定制作されたセラミック(陶器)を中心にご紹介しております。珍しい作品や人気のピカソ作品を仕入れるためフランスにスタッフを常駐させ、仕入れには力を入れています。原画は鑑定書の付いたものだけを取り扱っていますが、版画作品には鑑定書が発行されません。挿画本は完本の状態で入荷していますのでご安心ください。

 

 

作家の魅力

1 未来への可能性を拓いた画家

ピカソは、年代によって様々な表現で作品を制作し、決して一つの表現で満足することなく、常に新しいスタイルを生み出してきました。 新たな価値の創造とは既成の事実を覆すことによってのみ可能になると言わんばかりに、一度確立したスタイルをいとも簡単に捨てて次のスタイルへと変貌していったのです。 異なる複数の視点から捉えた対象の特徴を一つの画面上に再構成して描くというそれまでは誰も考えなかった新たな表現技法「キュビスム」によって美術史に革命をもたらした様に、ピカソは、これまでの絵画の固定概念を覆し、新たな表現の可能性を切り拓くことで、その後の画家たちに大きな影響を与えてきました。 すなわち、ピカソは20世紀を代表する芸術家であると同時に、常に時代の先導者として、世界中に生きる芸術家たちの創造の種となり、肥料となり、そして原動力となって美術界を牽引している存在といえるのです。

 

2 多作の天才

ピカソを不世出の芸術家にしている要因の一つは、その作品の多さにあります。 ピカソは生涯、1万3500点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を制作し、最も多作な美術家としてギネスブックに登録されました。 一般的には、作品点数が少ない方が希少価値は高まると考えがちなものですが、実際はその逆です。作品点数が少なすぎると取引される機会が少ないために、逆に商業的価値が下がる傾向にあります。 それに対し、作品数が多いということは、それだけ傑作の数も多くなります。さらに、常にどこかのオークションやギャラリーで作品が売買されることになるので、人目に触れ、話題になることが多くなり、宣伝効果も高まります。多作であることが、ピカソ作品の価値を高め、「ピカソ作品を一枚は持ちたい」というお客様は後を絶たず、現在も多くのコレクターを魅了し続けています。

 

3 今なお注目され続ける世界的巨匠

2015年5月11日にはオークションで、ピカソの油彩「アルジェの女たち(バージョン0)」が競売にかけられ、約1億7900万ドル(約215億円)で落札され、当時のオークション史上最高価格を記録しました。(現在でも歴代2位の記録です。) そして、2019年上半期の Artprice100(C)指標では、ピカソの人気の高さが再確認されました。 Artpriceとは、美術品の価格および索引データバンクにおけるグローバルリーダーです。3000万件以上のアートインデックスと、70万人以上のアーティストをカバーした競売データを有するものです。 これによると、100を総合と考えたうち、指標の占める割合が一番多いのがピカソで、全体の9.1%を占めています。ピカソの取り扱いが第二位のアンディ・ウォーホル(6.4%)、第三位のモネ(4.5%)と比べても飛びぬけて高く、ピカソの盤石な強さを実感します。 このように世界的に価格(価値)あるピカソの肉筆画は、資産としてのご購入もお勧めできます。また、飾っている作品というのはその場を訪れたお客様などから意外と見られているものです。ピカソの逸品を飾るということは、空間の品格を自然と上げてくれるのではないでしょうか。

 

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20世紀最大の画家

ピカソは生涯において一つの表現スタイルを貫くことはありませんでした。

 

1901 ~ 1904 年 青の時代
1904 ~ 1907 年 ばら色の時代
1907 ~ 1909 年 アフリカ彫刻の時代
1908 ~ 1918 年 キュビズムの時代
1918 ~ 1925 年 新古典主義の時代
1925 ~ 1936 年 シュルレアリズムの時代

 

新たな価値の創造とは既成の事実を覆すことによってのみ可能になると言わんばかりに、一度確立したスタイルをいとも簡単に捨てて次のスタイルへと変貌していきます。

1881年10 月 25 日、パブロ・ルイス・ピカソ、スペイン南部のマラガに生まれる。
父ホセ・ルイス・ブラスコはサン・テルモ工芸学校の絵画教師。
1889年最初の油彩画「ピカドール」
1891年10 歳。父が西北部の港町ラ・コルーニャのダ・グァルダ美術工芸学校に職を得、一家移動。
パブロも同校に通い、やがてその絵の才能が評判になる。
1895年父がバルセロナの美術学校ラ・ロンハの素描教授となり、一家は同地に移転。
パブロは規定年齢に達しないラ・ロンハの上級クラスに抜群の成績で合格する。
1897年「科学と慈悲」がマドリードの全国美術展に入賞。
10 月、マドリードの王立サン・フェルナンド美術学院に入学する。
しかし因習的な学院の指導法に退屈し、授業にはほとんど出席せず、プラド美術館に通って巨匠たちの作品を研究。
1899年モデルニズモは反カスティリア主義の志向が強く、スペインの古い伝統に対抗するためヨーロッパのあらゆる思想、芸術が導入されたが、ピカソは貪欲にそれらを吸収し、特にニーチェに心酔した。
最初の銅版画「左利きの男」を制作。
1900年学芸評論雑誌『ホベントゥート』に素描を掲載。
アトリエを共にしていた画家カサヘマスと、万国博覧会の開かれているパリを訪れる。
パリで「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」をはじめ、印象派的、後期印象派的タッチで多数の絵画を描く。

1901~1904年 青の時代

20 歳を過ぎたころ、親友カサヘマスの自殺をきっかけに、作品からは明るい色彩が消え、青が多用された時代。 生と死や貧困、社会の底辺に生きる人々を題材にした作品を描いた。

1901年20 歳
マドリードで文学者フランシス・ソレルと共同で『アルテ・ホベン(若き芸術)』を発刊(創刊号のみ)。
バルセロナのパレ画廊でピカソのパステル画展。友人カサヘマスがパリで自殺。
春遅くパリ再訪。
6 月、アンブロワーズ・ヴォラールの画廊でやはりスペインの画家イトゥリーノとの二人展。
詩人のマックス・ジャコブを知る。
<青の時代>開始
「青い部屋」を描く。
1902年1月、バルセロナに戻る。4 月、パリのベルト・ヴェイユ画廊にて個展。
10 月、再びパリへ行き、マックス・ジャコブの部屋に居候、夜間制作し、昼マックスが勤めに出た後のベッドに寝る。
1903年バルセロナに戻る。
<青の時代>は頂点に向かう。
「ラ・ヴィ」を完成後、エル・グレコ風のマニエリスム的人物表現の開始。
「ギターを弾く老人」

1904~1907年 バラ色の時代

モンマルトルのアトリエ、洗濯船に移り住み、恋人フェルナンド・オリヴィエとの出会いから、明るく温かみのある色彩を取り戻した時代。オリヴィエをモデルにした作品や、サーカスの道化師、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。

1904年4月、4度目のパリ、モンマルトルの丘の中腹にあった貧乏芸術家の長屋<洗濯船>に定住。
フェルナンド・オリヴィエと同棲。詩人ギョーム・アポリネール、アンドレ・サルモンらと親交を結ぶ。
<青の時代>終わる
銅版画「貧しき食事」
1905年サーカスに通い軽業師やアルルカンの世界を描く。
抒情的な<ばら色の時代>開始。
「サルタンバンクの家族」
夏、オランダ旅行。レオ、ガートルード・スタイン兄妹がピカソの作品を買い始める。
1906年ギリシア彫刻の研究から個展主義的傾向に移る。
フェルナンドとスペインに生きピレネー山中の村ゴソルで生活。
この間にイベリア彫刻の影響が表われる。
パリに戻る。
「ガートルード・スタインの肖像」
「アヴィニョンの娘たち」の制作にとりかかる。

1907~1909年 アフリカ彫刻の時代

アフリカ彫刻の影響を強く受けた時代。キュビズムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。

1908~1918年 キュビズムの時代

キュビズムとは・・・
従来の絵画は描こうとする対象を一面的に捉えて、2次元上のキャンバスに写し取るという1点透視図法で描いていた従来の絵画に対して、描こうとする対象の特徴がこちら側を向けていなくてもいろんな角度から見た物の形を一つの画面に収めるという方法。キュビズムはルネッサンス以降用いられてきた1点透視図法を無視して生み出した、美術史において革新的な技法となりました。 目に入る視覚的な対象を描くのではなく、自分の理解している対象を頭の中で組み立てて絵にするという、今では一般的な描くための方法を最初に行い、この新しい表現方法は後に続く画家に多大な影響を与え、描くための画家のコンセプトこそが何よりも優先される現代美術に受け継がれています。

1907年「アヴィニョンの娘たち」完成。
アポリネールを介してブラックと知り合う。
いわゆる<ニグロの時代>開始。
パリに画廊を開いたドイツ人の若い画商ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーと親しくなる。
1908年キュビズムの開始。ブラックも同調し、以後二人は手を取り合ってキュビズムの造形探究を進める。
物体の形態、ヴォリュームを単純な幾何学的量体に還元するいわゆる<セザンヌ的キュビズム>(―1909)
<洗濯船>のアトリエで税関吏ルソーのための宴会を開く。
1909年ヴォラールの画廊で個展、またドイツで初めての個展。
<分析的キュビズム>へ移行、「ヴォラールの肖像」(―1910)。
1910年ジャコブの『サン=マトレル』のための挿絵を制作。
1911年30歳
ニューヨークで最初の個展。
1912年マルセル・アンベール(エヴァ)と知り合い、フェルナンドと別れてモンパルナスに転居。
<総合的キュビズム>に移行。
最初のパピエ・コレの作品「籐椅子のある静物」。
ミュンヘンの<青騎士>展に参加。
1913年ブラック、レジェ、ドランらと旅行し一緒に制作する。バルセロナで父ホセ死去。
1914年ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンで個展。第一次対戦勃発し運動としてキュビズムは終わる。
エヴァと共にアヴィニョンに戦禍を避けたが11月にパリに戻る。
1917年ジャン・コクトー作の前衛バレエ『パラード』でディアギレフのロシア・バレエに協力し、舞台装置と衣装デザインを担当。 ロシア人のバレリーナ、オルガ・コクローヴァと親しくなる。

1918~1925年 新古典主義の時代

1920年代、新古典主義を模して、古典的で写実的な人物画を多く描いた時代。 妻オルガと息子パウロをモデルに描いた、量感のある母子像が有名。

1918年オルガと結婚。
<新古典主義>の様式を開始、キュビズムと並行させる。第一次大戦終結し、ラ・ボエティー街の豪華なアトリエに移る。画商ポール・ローザンベールと契約。
1919年ロンドンへ行きロシア・バレエの『三角帽子』(音楽はデ・ファリャ)の舞台、美術を担当。
ロンドンで個展。
1921年40歳
2枚の「三楽師」により1907年の「アヴィニョンの娘たち」に端を発した長期にわたるキュビズムの造形探究は完結を見る。
1924年エティエンヌ・ド・ボーモン伯爵主催の「ソワレ・ド・パリ」におけるバレエ『メルキュール』の美術を担当。
これは、ピカソが重要な役割を果たした舞台芸術の最後となる。

1925~1936年 シュルレアリズムの時代

シュルレアリズムとは・・・
シュルレアリズムとは、第一次世界大戦後におこった文学や芸術の革新運動。「無意識」の領域を表現することで、本当の自己や思想を表現しようとした考え方。ピカソのシュルレアリズムは、非現実的で化け物のようなイメージが多く描かれた時期で、妻オルガとの不仲が反映しているとも言われています。代表作は「ダンス」「磔刑」など。

1927年「三人の舞踏者」により独自のシュルレアリズム開始。
第1回シュルレアリズム展に参加。
バルザック作『知られざる傑作』の挿絵を制作(―1931)
1928年スペイン人の彫刻家、フリオ・ゴンサレスの影響で彫刻の制作を再開(1905年の「道化師」以来、「女の頭部」1909、「アブサント・グラス」1914などいくつかの作品がある)。
アンドレ・ブルトンの『シュルレアリズムと絵画』に15点の作品が紹介される。
1930年「オルガ・ピカソの肖像」でカーネギー賞受賞。
「ヴォラール・セット」の銅版画制作開始(―1937)。
1931年50歳
オヴィディウス『変身譚』の挿絵。
1932年オルガとの間が破綻に向かう。マリー=テレーズ・ワルテルと共同生活。
「鏡の前の女」
カイエ・ダール社のゼルヴォスがピカソ作品のカタログ・レゾネ第1巻を出版。
1933年ブルトンのシュルレアリズムの雑誌『ミノトール』の表紙のためにエッチング制作。
これが機でミノタウロスの連作を素描と版画で行う。
1934年

「リシストラータ」

「リシストラータ」 銅版画 1,500部
ギリシャの劇作家アリストファネスの戯曲「リシストラータ」を、ピカソの友人ジルベール・セルドが、英訳しピカソが6枚の銅版画を付した作品。物語は、アテネとスパルタの絶えざる戦いに倦んでしまったリシストラータを首謀者とする両サイドの女たちが、平和を求めて、夫たちの愛の求めを拒絶するという、一種のストライキを行う喜劇であり、根負けした男どもがついに休戦に応ずるという内容である。アメリカの出版社リミティッド・エディション・クラブ社から、1500部が挿絵本として、150部がワイドマージンの版画として刊行。今日では150部の方は入手困難で、一般に出回っているのは挿絵本のなかのオリジナル版画をばらして額装したしたものがほとんどである。
リシストラータ作品一覧>>

1935年オルガと離別(離婚は成立せず)。マリー=テレーズとの間に長女マイヤ誕生。
『カイエ・ダール』誌にシュルレアリズム的詩を発表。
1936年スペイン各地で巡回展。
7月、スペイン内戦始まり人民戦線政府からプラド美術館長に任命される。
1937年エッチング「フランコの夢と嘘」を制作し独裁者フランコを攻撃する。
バスク地方のゲルニカが親フランコのドイツ機によって爆撃される。
6月、パリ万国博スペイン共和国館のために「ゲルニカ」を描く。
1938年「ゲルニカ」、ノルウェー、イギリス、アメリカを巡回。
1939年ニューヨーク近代美術館で「ピカソ芸術40年展」364点が出品される。
1940年ドイツ軍占領下のパリに戻る。ナチスへの協力を拒み作品の公開を禁止される。
1941年60歳
戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
1944年8月、パリ解放。フランソワーズ・ジローと出会う。
ナチス占領下における地下運動に共感しフランス共産党に入党。
サロン・ドートンヌで占領中のピカソの作品が公開される。
この頃から主として南仏で制作する。
1946年フランソワーズとの生活始まる。
南仏におけるもうひとつの根拠地、ゴルフ・ジュアンから3マイルほど離れた陶器と香水の産地、ヴァローリスを訪れ、そこにマドゥーラ窯を構えるジョルジュ・ラミエ夫妻と懇意になり、粘土で2、3の試作をする。
1947年ヴァローリスを訪れ昨年の粘土の試作が焼成されているのを見て、陶芸に熱中するようになる。
彼の独創的な作品は注目を浴び、若い陶芸家たちがその指導を求めるようになる。
ピカソはこうしてヴァローリスの陶器産業を復興させた。
1948年戯曲第2作『四人の少女』を書く。
パリのメゾン・ド・ラ・パンセ・フランセでピカソの陶芸展、149点が展観される。
1948年

「ゴンゴラの詩」

「ゴンゴラの詩」 銅版画 275部
ポスト・モダンの父といわれる16世紀スペインの詩人ルイス・デ・ゴンゴラのソネット20篇を、ピカソがすべて自身の手写で収録、挿絵を加えた作品。1948年にパリで275部の豪華限定版として刊行された。各ソネットの前には女性の頭部が合計19点、1番目のソネットにはゴンゴラの肖像画が(1622年に若きヴェラスケスが描いたものを元に)描かれる。 ピカソによるソネットの手写は、内容によって字体や筆圧まで変わっており、各ソネットに対する理解の深さが感じられる作品。20篇のソネットは制作年もジャンルもばらばらだが、ゴンゴラの詩を読み、そこに添えられた挿絵をみていくと、全体の流れは一人の人間の生涯に近いといえる。『ゴンゴラ』は、人間ピカソの心の記録であり、魂の表現であったと言える。
「ゴンゴラの詩」作品一覧>>

1949年4月、次女パロマ誕生。アラン・レネ、映画『ゲルニカ』制作。
1950年朝鮮戦争に反対して「朝鮮の虐殺」を制作。このころから彫刻も多く制作する。
「山羊」、「縄跳びをする少女」。彫刻「羊を抱く男」をヴァローリス市に寄贈。
同町の名誉町民となる。ピカソ原作の陶器を複製化することが、彼の了承のもとに始まる。
1951年70歳
東京で初めて個展。
1952年<平和の殿堂>のための壁画「戦争」、「平和」を制作。
1953年ニューヨーク近代美術館で「ピカソ芸術40年展」364点が出品される。
1954年
ピカソ 人間喜劇
「人間喜劇」

「人間喜劇」 リトグラフ(石版画) ラージ
“世界で最も美しい雑誌”と呼ばれた、テリアド社出版の豪華美術雑誌「ヴェルブ」のピカソ特集号に収められたリトグラフ作品12点。
「人間喜劇」作品一覧>>

1957年ニューヨークで「ピカソ75歳記念」の大回顧展。
「ラス・メニーナス」の大連作を制作。
1959年

「カリフォルニーの手帖」

「カリフォルニーの手帖」 リトグラフ(石版画) 1,500部
“ピカソ73歳のときにカンヌ郊外のラ・カリフォルニーに別荘を購入し、アトリエとして使用した。「カリフォルニアの手帖」は、その別荘件アトリエで、ピカソが1955年11月1日から1956年1月14日の間にスケッチブックに描いた素描をもとに制作されたリトグラフ入りの本で、パリのEditions Circle d’Art社から1959年に刊行された。
「カリフォルニーの手帖」作品一覧>>

1961年80歳
ジャクリーヌと正式に結婚。
カンヌの北にあるムージャンに<ノートル=ダム=ド=ヴィ>を買い、そこに住む。
1963年サバルテスが尽力したバルセロナのピカソ美術館開館。
1964年東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で回顧展。
ニューヨークの世界博覧会に、フランコ政府が初めてピカソの作品の貸し出しを許可する。
1966年パリのグラン・パレ、プティ・パレ、国立図書館その他で、文部省主催の「ピカソ生誕85周年記念大回顧展」開催。
グラン・パレに絵画、プティ・パレに素描、彫刻、陶芸が展示される。
1967年ロンドンのテート・ギャラリーでピカソの彫刻、陶芸展。
ニューヨークなど各地で生誕85年記念展。
1968年

「347シリーズ」

「347シリーズ 銅版画 50部
ピカソの晩年、1968年に制作した347点の連作。女性に対する「愛」がテーマとなった作品。86歳という高齢にもかかわらず、204日間という短い間に347作が制作されたといわれ、ピカソの創作への意欲が感じられる作品です。
「347シリーズ」作品一覧>>

1969年

「想像の中の肖像」

「想像の中の肖像」 リトグラフ(石版画) 250部
29枚からなる版画シリーズ。ピカソは南仏へ引っ越の際、 梱包後のダンボールに創作意欲をかき立てられ、次々に29枚の作品をグワッシュで描き、それを版画にしました。王様の肖像画から独自のイメージを発展させた、斬新でキュビズムを連想させるピカソらしい作品です。
「想像の中の肖像」作品一覧 >>

1970年アヴィニョンのクレメンス教皇礼拝堂で展覧会。
1971年パリ国立近代美術館で生誕90周年の大回顧展。また世界各地で記念展。
1973年91歳
4月8日、ムージャンの<ノートル=ダム=ド=ヴィ>で91歳の生涯を閉じる。

ピカソのセラミック

ピカソは、1946年に南仏の小さな陶芸の町、ヴァローリスを訪ね、そこで工房を構える陶芸家ジョルジュ・ラミエと出会ったことをきっかけに陶芸制作を始めました。
ラミエの指導のもとに技術を習得したピカソは、陶芸の持つ形を作るという彫刻的要素と、絵付けをするという絵画的要素に魅せられ、1973年に91歳で生涯を閉じるまでに、約3300点の陶芸作品を制作しました。
皿や鉢、花瓶や陶板などを実用的な形態の陶器に、独自の豊かな発想で人間の顔や動植物、闘牛、魚など得意な題材を描き、実用性を越えた自由で躍動感にあふれる多彩な作品を生みだしています。
ピカソ本人が成型、絵付けをしたり、既製品に本人が絵付けをした『原作陶器(オリジナル)』、原作陶器の中から完成度の高いものを選び、ラミエの工房で自ら監修して、陶工に原作陶器から一定数を型抜きさせ、絵付けをさせて制作した『アンプラント・オリジナル・ド・ピカソ』、そして原作陶器をモデルとして、ピカソの了解を得て、陶工の手によって一定数作られた複数制作陶器、『エディション・ピカソ』とがあります。



ピカソの値段について

~『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)より一部抜粋
ピカソは20世紀において最も有名な人物の一人です。 当然その作品も非常に人気が高く、常に高額で取引されています。
たとえば、1955年、ピカソが74歳の時に描いた『アルジェの女たち(バージョンO)』は、2015年のニューヨーク・クリスティーズのオークションで、手数料込み1億7936万5000ドル(約215億円)で落札されました。 この落札価格は、2016年時点では、オークションにおける美術品の史上最高落札価格記録となっています。
ちなみに、この作品が1956年に個人収集家に売却された時の価格は21万ドルでした。60年の間に、価格が実に854倍になった計算になります。
また、1997年にオークションにかけられた時の落札価格は3200万ドルでした。そこを起点としても、わずか18年の間に、価格が6倍近くはね上がったことになります。
なぜ、ピカソの作品は、一目見たら忘れられないインパクトを持っているのでしょうか。そしてなぜこれほどまでにオークションで人気なのでしょうか。
ピカソを不世出の芸術家にしている要因の一つは、その作品の多さにあります。
作品数が多いということは、それだけ傑作の数も多くなります。さらに、常にどこかのオークションやギャラリーで作品が売買されることになるので、人目に触れたり、話題になることが多くなり、宣伝効果も高まります。多作であることが、ピカソ作品の価値を高めているのです。
一般的には、作品点数が少ないほうが希少価値が高まると考えがちなものです。ところが、実際はその逆で、作品点数が少なすぎると取引される機会が少ないために、逆に商業的価値が下がる傾向にあります。

もっと詳しく知りたい方は・・・
『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)

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