なぜピカソは≪ゲルニカ≫を描いたか?
パブロ・ピカソの一般的なイメージは、人を驚かせる前衛画家であり、若い愛人を何人も持った艶福家でしょう。
その一方で、ピカソは戦争の悲惨さを訴える政治的な壁画≪ゲルニカ≫の作者としても有名です。
親しい友人であった画商のカーンワイラーが、ピカソを「政治意識の薄さでは人後におちない」と形容しているように、それまでのピカソの人生には政治的な行動はほとんど見られませんでした。
ピカソだけでなく、自分自身の美を追求するアーティストの多くは、他人の幸福を泥にまみれながら追求する政治には、あまり興味を持たないものです。
なぜ、ピカソは≪ゲルニカ≫を描いたのでしょうか?
≪ゲルニカ≫はスペイン政府からの依頼だった
ピカソが≪ゲルニカ≫の制作に着手したのは1937年1月のことです。
同年5月からパリで開催される万博(万国博覧会)のスペイン館に飾るために、共和国政府からの依頼があったからです。
ちなみに、当時スペイン共和国の政府軍は、元陸軍総長のフランシス・フランコの指揮する反乱軍との内戦を戦っていました。
スペインを二分したこの内戦で、ピカソは政府軍を支持し≪フランコの夢と嘘≫と題した風刺の詩とそれに添える銅版画を制作して販売し、売上を政府軍に寄付していました。共和国政府からの壁画制作の依頼は、ピカソへの恩返しでもあったのでしょう。
当初、ピカソが壁画の主題に考えていたのは、政治とは無関係のものでした。しかし同年4月に、ドイツ空軍の助力を得たフランコの反乱軍が、バスク地方の小さな街ゲルニカを無差別爆撃して、一般市民を多数殺害したことがニュースになると、一転してこの事件をテーマに絵を描くことにしました。
当時、戦争は軍と軍との間で行うものでした。戦略拠点があるとはいえ、一般市民への空爆は史上初の惨事でした。

ゲルニカ爆撃とは何だったのか?
当時の政治情勢は複雑でした。
第一次世界大戦中にロシアで共産主義革命が起こり、皇帝一家が殺され、1922年にソビエト連邦(ソ連)が成立しました。
私有財産を否定し、人民の平等を理想とする共産主義は世界中の急進的な若者の間で流行となりましたが、各国政府は体制を転覆する共産主義革命に恐怖を覚えました。
成立したばかりのソ連は各国から仮想敵国と見なされて、ゲルニカ爆撃の前年の1936年には日独伊防共協定(日本・ドイツ・イタリアで共産主義を防ぐ共同防衛宣言)が調印されています。
一方、この日本やドイツやイタリアも、イギリスやフランスやアメリカからは異端の目で見られていました。
イギリスやフランスやアメリカは、議会制民主主義をいちはやく達成した先進国でしたが、日本やドイツやイタリアは経済的に遅れを取っていて、そのために中央集権的な政府による産業推進策を取っていたからです。
ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニ、そして日本の昭和天皇は、国民を一つに統合する強力なリーダーと見なされていました。資本主義による自由を推進していたイギリスやフランスやアメリカは、ドイツやイタリアや日本を、急速に力をつける全体主義国家として警戒していました。
共産主義のソ連も、民主主義国家のイギリスやフランスよりも、専制国家のドイツやイタリアをより敵視していました。
スペインでは、民主主義的な共和国政府に対し、軍人のフランコが専制国家を目指して内乱を仕掛けていました。そこでソ連は共和国政府軍を支援するために軍隊(人民戦線)を送りこみました。逆にドイツやイタリアは、フランコの反乱軍を支援しました。スペイン内戦は、共産主義・民主主義と全体主義との戦いだったのです。
そして1937年、中央集権政府に国民の力を結集しようとする全体主義国家のドイツは、自治や独立の気風が強いバスク地方とそこに拠る人民戦線を叩くために、空軍を使ってゲルニカ爆撃を行いました。
これを格好のテーマとしたのがパリにいたピカソでした。
なかなかスペインに帰れなかった≪ゲルニカ≫
高さ3.5m、幅7.8mの巨大な絵画≪ゲルニカ≫は、パリ万博のスペイン館の目玉となりました。
同じくスペインの画家であるミロも「スペインを救え!」と書いた労働者のポスターをスペイン館のために制作して、共和国政府への支援を訴えましたが、最も話題になったのは≪ゲルニカ≫でした。
スペイン政府はピカソに絵の代金として15万フランを支払い、万博終了後、絵はスペインに運ばれるはずでした。しかし、内戦が続くスペインで、敗色濃厚な共和国政府に絵を無事に保管する計画もなく、絵はそのままフランスに留め置かれました。
1939年、フランコが内戦に勝利すると、ピカソは≪ゲルニカ≫をニューヨーク近代美術館に貸し出しました。ちょうどそのときピカソの回顧展が開催されることになったからです。
以降、30年以上にわたって、≪ゲルニカ≫はニューヨーク近代美術館が「一時的に保管」することになったのです。
ピカソは≪ゲルニカ≫の所有権がスペインにあることを常に表明していましたが、1971年にピカソが亡くなるまでフランコがスペインの国家元首として君臨していたため、生前の≪ゲルニカ≫の返還は叶いませんでした。
ピカソが故国スペインに帰らず、終生をフランスで過ごしたのも、ゲルニカ爆撃を行ったフランコ政権が続いていたためだと言われています。
1975年にフランコが死去した後、フランコの意志に基づいてスペインは王制に復帰し、新国王フアン・カルロスが民主化を推進したことで、ようやく≪ゲルニカ≫はスペインに帰国することになりました。
≪ゲルニカ≫の受入れにはスペイン国内の多くの美術館が手を上げました。ゲルニカの傍にある県都ビルバオ、ピカソの生誕地マラガなどを抑えて、首都マドリードのプラド美術館別館に収められることになったのは、セキュリティ上の理由が大きかったそうです。
現在≪ゲルニカ≫は、首都マドリードのソフィア王妃芸術センターに飾られています。
≪ゲルニカ≫といえば、国連本部に同じ大きさのタペストリー(タピスリ)が掲げられていることがよく知られています。その前で記者会見が行われることが多いので、テレビにもよく映ります。
このタピスリは3点存在していて、そのうちの1点は日本の群馬県立近代美術館の所蔵となっています。2019年12月8日まで群馬県立館林美術館がそのタピスリを借りて「ピカソ展 ゲルニカ[タピスリ]をめぐって」を開催しています。興味のある方はぜひ。

参考文献 ラッセル・マーティン『ピカソの戦争 ≪ゲルニカ≫の真実』白水社
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