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パブロ・ピカソの生涯

 


 

20世紀最大の絵画革命

 

ピカソが始めた「キュビスム」と呼ばれる絵画運動は異なる複数の視点から対象の特長を捉え、
その断片化された特長を一つの画面上に再構成するという表現方法により、
ルネッサンス以降、絵画技法として用いられてきた遠近法(一点透視図法)では表現しきれなかった
対象の隠れた特長をも描くという新たな表現技法によって美術史に革命をもたらしました。
ピカソが切り開いた表現の可能性はのちに続く画家に多大な影響を与え、
作品を描く画家のコンセプトこそが重要視される現代美術に受け継がれています。

 

 

20 世紀最大の画家

ピカソは生涯において一つの表現スタイルを貫くことはありませんでした。

 

1901 ~ 1904 年  青の時代
1904 ~ 1907 年  ばら色の時代
1907 ~ 1909 年  アフリカ彫刻の時代
1907 ~ 1916 年  キュビズムの時代
1918 ~ 1925 年  シュルレアリズムの時代

 

新たな価値の創造とは既成の事実を覆すことによってのみ可能になると言わんばかりに、一度確立したスタイルをいとも簡単に捨てて次のスタイルへと変貌していきます。

 

 

 

ピカソの生涯と作品

 

1881年

10 月 25 日、パブロ・ルイス・ピカソ、スペイン南部のマラガに生まれる。

父ホセ・ルイス・ブラスコはサン・テルモ工芸学校の絵画教師。

 

1889年 最初の油彩画「ピカドール」
1891年 10 歳。父が西北部の港町ラ・コルーニャのダ・グァルダ美術工芸学校に職を得、一家移動。
パブロも同校に通い、やがてその絵の才能が評判になる。
1895年

父がバルセロナの美術学校ラ・ロンハの素描教授となり、一家は同地に移転。

パブロは規定年齢に達しないラ・ロンハの上級クラスに抜群の成績で合格する。

 

1897年 「科学と慈悲」がマドリードの全国美術展に入賞。
10 月、マドリードの王立サン・フェルナンド美術学院に入学する。
しかし因習的な学院の指導法に退屈し、授業にはほとんど出席せず、プラド美術館に通って巨匠たちの作品を研究。
1899年

バルセロナに戻りモデルニズモ運動の中心のひとつであるカフェ<四匹の猫>の常連となる。

モデルニズモは反カスティリア主義の志向が強く、スペインの古い伝統に対抗するためヨーロッパのあらゆる思想、芸術が導入されたが、ピカソは貪欲にそれらを吸収し、特にニーチェに心酔した。
最初の銅版画「左利きの男」を制作。

 

1900年 学芸評論雑誌『ホベントゥート』に素描を掲載。
アトリエを共にしていた画家カサヘマスと、万国博覧会の開かれているパリを訪れる。
パリで「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」をはじめ、印象派的、後期印象派的タッチで多数の絵画を描く。

 

1901~1904年 青の時代

 

20 歳を過ぎたころ、親友カサジェマスの自殺をきっかけに、作品からは明るい色彩が消え、青が多用された時代。
生と死や貧困、社会の底辺に生きる人々を題材にした作品を描いた。

 

 


1901年

20 歳
マドリードで文学者フランシス・ソレルと共同で『アルテ・ホベン(若き芸術)』を発刊(創刊号のみ)。
バルセロナのパレ画廊でピカソのパステル画展。友人カサヘマスがパリで自殺。
春遅くパリ再訪。
6 月、アンブロワーズ・ヴォラールの画廊でやはりスペインの画家イトゥリーノとの二人展。
詩人のマックス・ジャコブを知る。

<青の時代>開始
「青い部屋」を描く。

1902年 1月、バルセロナに戻る。4 月、パリのベルト・ヴェイユ画廊にて個展。
10 月、再びパリへ行き、マックス・ジャコブの部屋に居候、夜間制作し、昼マックスが勤めに出た後のベッドに寝る。
1903年 バルセロナに戻る。
<青の時代>は頂点に向かう。
「ラ・ヴィ」を完成後、エル・グレコ風のマニエリスム的人物表現の開始。
「ギターを弾く老人」

 

1904~1907年 バラ色の時代

 

モンマルトルのアトリエ、洗濯船に移り住み、恋人フェルナンド・オリヴィエとの出会いから、明るく温かみのある色彩を取り戻した時代。オリヴィエをモデルにした作品や、サーカスの道化師、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。

 

 


1904年

4月、4度目のパリ、モンマルトルの丘の中腹にあった貧乏芸術家の長屋<洗濯船>に定住。
フェルナンド・オリヴィエと同棲。詩人ギョーム・アポリネール、アンドレ・サルモンらと親交を結ぶ。

 

<青の時代>終わる
銅版画「貧しき食事」

1905年

サーカスに通い軽業師やアルルカンの世界を描く。

 

抒情的な<ばら色の時代>開始。
「サルタンバンクの家族」
夏、オランダ旅行。レオ、ガートルード・スタイン兄妹がピカソの作品を買い始める。

1906年 ギリシア彫刻の研究から個展主義的傾向に移る。
フェルナンドとスペインに生きピレネー山中の村ゴソルで生活。
この間にイベリア彫刻の影響が表われる。
パリに戻る。
「ガートルード・スタインの肖像」
「アヴィニョンの娘たち」の制作にとりかかる。

 

1907~1909年 アフリカ彫刻の時代

 

アフリカ彫刻の影響を強く受けた時代。キュビズムの端緒となる『アビニヨンの娘たち』が生まれた。

 


 

1907~1916年 キュビズムの時代

 

キュビズムとは・・・

 

従来の絵画は描こうとする対象を一面的に捉えて、2次元上のキャンバスに写し取るという1点透視図法で描いていた従来の絵画に対して、描こうとする対象の特徴がこちら側を向けていなくてもいろんな角度から見た物の形を一つの画面に収めるという方法。キュビズムはルネッサンス以降用いられてきた1点透視図法を無視して生み出した、美術史において革新的な技法となりました。
目に入る視覚的な対象を描くのではなく、自分の理解している対象を頭の中で組み立てて絵にするという、今では一般的な描くための方法を最初に行い、この新しい表現方法は後に続く画家に多大な影響を与え、描くための画家のコンセプトこそが何よりも優先される現代美術に受け継がれています。

 

 

 


1907年 「アヴィニョンの娘たち」完成。
アポリネールを介してブラックと知り合う。
いわゆる<ニグロの時代>開始。
パリに画廊を開いたドイツ人の若い画商ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーと親しくなる。
1908年 キュビズムの開始。ブラックも同調し、以後二人は手を取り合ってキュビズムの造形探究を進める。
物体の形態、ヴォリュームを単純な幾何学的量体に還元するいわゆる<セザンヌ的キュビズム>(―1909)
<洗濯船>のアトリエで税関吏ルソーのための宴会を開く。
1909年 ヴォラールの画廊で個展、またドイツで初めての個展。
<分析的キュビズム>へ移行、
「ヴォラールの肖像」(―1910)。
1910年 ジャコブの『サン=マトレル』のための挿絵を制作。
1911年 30歳 
ニューヨークで最初の個展。
1912年 マルセル・アンベール(エヴァ)と知り合い、フェルナンドと別れてモンパルナスに転居。
<総合的キュビズム>に移行。
最初のパピエ・コレの作品「籐椅子のある静物」。
ミュンヘンの<青騎士>展に参加。
1913年 ブラック、レジェ、ドランらと旅行し一緒に制作する。バルセロナで父ホセ死去。
1914年 ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンで個展。第一次対戦勃発し運動としてキュビズムは終わる。
エヴァと共にアヴィニョンに戦禍を避けたが11月にパリに戻る。
1917年 ジャン・コクトー作の前衛バレエ『パラード』でディアギレフのロシア・バレエに協力し、舞台装置と衣装デザインを担当。
ロシア人のバレリーナ、オルガ・コクローヴァと親しくなる。

 

1918~1925年 新古典主義の時代

 

1920年代、新古典主義を模して、古典的で写実的な人物画を多く描いた時代。

妻オルガと息子パウロをモデルに描いた、量感のある母子像が有名。

 


1918年 オルガと結婚。
<新古典主義>の様式を開始、キュビズムと並行させる。第一次大戦終結し、
ラ・ボエティー街の豪華なアトリエに移る。画商ポール・ローザンベールと契約。
1919年 ロンドンへ行きロシア・バレエの『三角帽子』(音楽はデ・ファリャ)の舞台、美術を担当。
ロンドンで個展。
1921年 40歳
2枚の「三楽師」により1907年の「アヴィニョンの娘たち」に端を発した長期にわたるキュビズムの造形探究は完結を見る。
1924年 エティエンヌ・ド・ボーモン伯爵主催の「ソワレ・ド・パリ」におけるバレエ『メルキュール』の美術を担当。
これは、ピカソが重要な役割を果たした舞台芸術の最後となる。

 

1925~1936年 シュルレアリズムの時代

 

シュルレアリズムとは・・・

シュルレアリズムとは、第一次世界大戦後におこった文学や芸術の革新運動。
「無意識」の領域を表現することで、本当の自己や思想を表現しようとした考え方。
ピカソのシュルレアリズムは、非現実的で化け物のようなイメージが多く描かれた時期で、妻オルガとの不仲が反映しているとも言われています。代表作は「ダンス」「磔刑」など。

 


1927年

「三人の舞踏者」により独自のシュルレアリズム開始。
第1回シュルレアリズム展に参加。

バルザック作『知られざる傑作』の挿絵を制作(―1931)

1928年 スペイン人の彫刻家、フリオ・ゴンサレスの影響で彫刻の制作を再開(1905年の「道化師」以来、「女の頭部」1909、「アブサント・グラス」1914などいくつかの作品がある)。
アンドレ・ブルトンの『シュルレアリズムと絵画』に15点の作品が紹介される。
1930年 「オルガ・ピカソの肖像」でカーネギー賞受賞。
「ヴォラール・セット」の銅版画制作開始(―1937)。
1931年 50歳
オヴィディウス『変身譚』の挿絵。
1932年 オルガとの間が破綻に向かう。マリー=テレーズ・ワルテルと共同生活。
「鏡の前の女」
カイエ・ダール社のゼルヴォスがピカソ作品のカタログ・レゾネ第1巻を出版。
1933年 ブルトンのシュルレアリズムの雑誌『ミノトール』の表紙のためにエッチング制作。
これが機でミノタウロスの連作を素描と版画で行う。

1934年

「リシストラータ」 銅版画 1,500部

 

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ギリシャの劇作家アリストファネスの戯曲「リシストラータ」を、ピカソの友人ジルベール・セルドが、英訳しピカソが6枚の銅版画を付した作品。
物語は、アテネとスパルタの絶えざる戦いに倦んでしまったリシストラータを首謀者とする両サイドの女たちが、平和を求めて、夫たちの愛の求めを拒絶するという、一種のストライキを行う喜劇であり、根負けした男どもがついに休戦に応ずるという内容である。

アメリカの出版社リミティッド・エディション・クラブ社から、1500部が挿絵本として、150部がワイドマージンの版画として刊行。今日では150部の方は入手困難で、一般に出回っているのは挿絵本のなかのオリジナル版画をばらして額装したしたものがほとんどである。

「リシストラータ」作品一覧ページ >>


1935年 オルガと離別(離婚は成立せず)。マリー=テレーズとの間に長女マイヤ誕生。
『カイエ・ダール』誌にシュルレアリズム的詩を発表。
1936年 スペイン各地で巡回展。
7月、スペイン内戦始まり人民戦線政府からプラド美術館長に任命される。
1937年 エッチング「フランコの夢と嘘」を制作し独裁者フランコを攻撃する。
バスク地方のゲルニカが親フランコのドイツ機によって爆撃される。
6月、パリ万国博スペイン共和国館のために「ゲルニカ」を描く。
1938年 「ゲルニカ」、ノルウェー、イギリス、アメリカを巡回。
1939年 ニューヨーク近代美術館で「ピカソ芸術40年展」364点が出品される。
1940年 ドイツ軍占領下のパリに戻る。ナチスへの協力を拒み作品の公開を禁止される。
1941年 60歳
戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。
1944年

8月、パリ解放。フランソワーズ・ジローと出会う。
ナチス占領下における地下運動に共感しフランス共産党に入党。

サロン・ドートンヌで占領中のピカソの作品が公開される。
この頃から主として南仏で制作する。

1945年 リトグラフの刷り師フェルナン・ムルロと知りあい、リトグラフの制作に集中、
特にフランソワーズを描く。
1946年 フランソワーズとの生活始まる。
南仏におけるもうひとつの根拠地、ゴルフ・ジュアンから3マイルほど離れた陶器と香水の産地、ヴァローリスを訪れ、そこにマドゥーラ窯を構えるジョルジュ・ラミエ夫妻と懇意になり、粘土で2、3の試作をする。
1947年 ヴァローリスを訪れ昨年の粘土の試作が焼成されているのを見て、陶芸に熱中するようになる。
彼の独創的な作品は注目を浴び、若い陶芸家たちがその指導を求めるようになる。
ピカソはこうしてヴァローリスの陶器産業を復興させた。
1948年 戯曲第2作『四人の少女』を書く。
パリのメゾン・ド・ラ・パンセ・フランセでピカソの陶芸展、149点が展観される。

「ゴンゴラの詩」 銅版画  275部

 

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ポスト・モダンの父といわれる16世紀スペインの詩人ルイス・デ・ゴンゴラのソネット20篇を、ピカソがすべて自身の手写で収録、挿絵を加えた作品。1948年にパリで275部の豪華限定版として刊行された。

各ソネットの前には女性の頭部が合計19点、1番目のソネットにはゴンゴラの肖像画が(1622年に若きヴェラスケスが描いたものを元に)描かれる。

ピカソによるソネットの手写は、内容によって字体や筆圧まで変わっており、各ソネットに対する理解の深さが感じられる作品。20篇のソネットは制作年もジャンルもばらばらだが、ゴンゴラの詩を読み、そこに添えられた挿絵をみていくと、全体の流れは一人の人間の生涯に近いといえる。『ゴンゴラ』は、人間ピカソの心の記録であり、魂の表現であったと言える。

「ゴンゴラの詩」作品一覧ページ >>


1949年

4月、次女パロマ誕生。アラン・レネ、映画『ゲルニカ』制作。

1950年 朝鮮戦争に反対して「朝鮮の虐殺」を制作。このころから彫刻も多く制作する。
「山羊」、「縄跳びをする少女」。彫刻「羊を抱く男」をヴァローリス市に寄贈。
同町の名誉町民となる。ピカソ原作の陶器を複製化することが、彼の了承のもとに始まる。
1951年 70歳
東京で初めて個展。
1952年 <平和の殿堂>のための壁画「戦争」、「平和」を制作。
1953年 ラミエ夫人の従妹ジャクリーヌ・ロックが身のまわりの世話をし、モデルともなり、やがて同棲する。
ローマの国立近代美術館でピカソ回顧展、陶芸39点が含まれる。

1954年

「人間喜劇」 リトグラフ(石版画) ラージ

 

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“世界で最も美しい雑誌”と呼ばれた、テリアド社出版の豪華美術雑誌「ヴェルブ」のピカソ特集号に収められたリトグラフ作品12点。

「人間喜劇」作品一覧ページ >>


1957年 ニューヨークで「ピカソ75歳記念」の大回顧展。
「ラス・メニーナス」の大連作を制作。

1959年

「カリフォルニーの手帖」 リトグラフ(石版画) 1,500部

 

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ピカソ73歳のときにカンヌ郊外のラ・カリフォルニーに別荘を購入し、アトリエとして使用した。「カリフォルニアの手帖」は、その別荘件アトリエで、ピカソが1955111日から1956114日の間にスケッチブックに描いた素描をもとに制作されたリトグラフ入りの本で、パリのEditions Circle d’Art社から1959年に刊行された。


 

1961年

80歳
ジャクリーヌと正式に結婚。
カンヌの北にあるムージャンに<ノートル=ダム=ド=ヴィ>を買い、そこに住む。

1963年 サバルテスが尽力したバルセロナのピカソ美術館開館。
1964年 東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で回顧展。
ニューヨークの世界博覧会に、フランコ政府が初めてピカソの作品の貸し出しを許可する。
1966年 パリのグラン・パレ、プティ・パレ、国立図書館その他で、
文部省主催の「ピカソ生誕85周年記念大回顧展」開催。
グラン・パレに絵画、プティ・パレに素描、彫刻、陶芸が展示される。
1967年

ロンドンのテート・ギャラリーでピカソの彫刻、陶芸展。
ニューヨークなど各地で生誕85年記念展。

 


1968年

「347シリーズ」 銅版画 50部

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ピカソの晩年、1968年に制作した347点の連作。女性に対する「愛」がテーマとなった作品。86歳という高齢にもかかわらず、204日間という短い間に347作が制作されたといわれ、ピカソの創作への意欲が感じられる作品です。

「347シリーズ」作品一覧 >>



1969年

「想像の中の肖像」 リトグラフ(石版画) 250部

 

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29枚からなる版画シリーズ。
ピカソは南仏へ引っ越の際、 梱包後のダンボールに創作意欲をかき立てられ、次々に29枚の作品をグワッシュで描き、それを版画にしました。
王様の肖像画から独自のイメージを発展させた、斬新でキュビズムを連想させるピカソらしい作品です。

「想像の中の肖像」作品一覧ページ >>


1970年

アヴィニョンのクレメンス教皇礼拝堂で展覧会。

 

1971年

パリ国立近代美術館で生誕90周年の大回顧展。また世界各地で記念展。

1973年 91歳
4月8日、ムージャンの<ノートル=ダム=ド=ヴィ>で91歳の生涯を閉じる。

 

 

ピカソ作品一覧ページ >>

 


 

ピカソのセラミック

 

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「闘牛(オリジナル・セラミック)」

 

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「顔 No.197」

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「顔のピッチャー」

 

ピカソは、1946年に南仏の小さな陶芸の町、ヴァローリスを訪ね、そこで工房を構える陶芸家ジョルジュ・ラミエと出会ったことをきっかけに陶芸制作を始めました。ラミエの指導のもとに技術を習得したピカソは、陶芸の持つ形を作るという彫刻的要素と、絵付けをするという絵画的要素に魅せられ、1973年に91歳で生涯を閉じるまでに、約3300点の陶芸作品を制作しました。

皿や鉢、花瓶や陶板などを実用的な形態の陶器に、独自の豊かな発想で人間の顔や動植物、闘牛、魚など得意な題材を描き、実用性を越えた自由で躍動感にあふれる多彩な作品を生みだしています。

ピカソ本人が成型、絵付けをしたり、既製品に本人が絵付けをした『原作陶器(オリジナル)』、原作陶器の中から完成度の高いものを選び、ラミエの工房で自ら監修して、陶工に原作陶器から一定数を型抜きさせ、絵付けをさせて制作した『アンプラント・オリジナル・ド・ピカソ』、そして原作陶器をモデルとして、ピカソの了解を得て、陶工の手によって一定数作られた複数制作陶器、『エディション・ピカソ』とがあります。

 

 

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翠波画廊での取り扱い作品

 

ピカソの制作意欲は旺盛で生前に残した作品は版画だけでも10万点、その他油彩、水彩、セラミック(陶器)、彫刻などで5万点近くと言われています。

ピカソの作品を創業以来1000作以上販売実績のある翠波画廊では、ピカソの生前に作られた版画(オリジナル版画)と限定制作されたセラミック(陶器)を中心にご紹介しております。

作品は、レゾネに掲載されているオリジナル版画、セラミックを扱っております

 

 

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1947~1971年のセラミック全作品を網羅したアラン・ラミエカタログレゾネ

翠波画廊では、南仏のマドゥーラ工房でピカソ監修のもとに作られたセラミック(陶器)をご紹介しています。

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1904~1972年の版画三巻とセラミック一巻に作品を網羅したブロック編纂のカタログレゾネ

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1914~1974年の挿画本作品を網羅したクラメール編纂のカタログレゾネ

 

 

 

 

 

ピカソの値段について~『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)より一部抜粋

 

 

ピカソは20世紀において最も有名な人物の一人です。
当然その作品も非常に人気が高く、常に高額で取引されています。
たとえば、1955年、ピカソが74歳の時に描いた『アルジェの女たち(バージョンO)』は、2015年のニューヨーク・クリスティーズのオークションで、手数料込み1億7936万5000ドル(約215億円)で落札されました。
この落札価格は、2016年時点では、オークションにおける美術品の史上最高落札価格記録となっています。
 ちなみに、この作品が1956年に個人収集家に売却された時の価格は21万ドルでした。60年の間に、価格が実に854倍になった計算になります。
 また、1997年にオークションにかけられた時の落札価格は3200万ドルでした。そこを起点としても、わずか18年の間に、価格が6倍近くはね上がったことになります。

 

 

 なぜ、ピカソの作品は、一目見たら忘れられないインパクトを持っているのでしょうか。そしてなぜこれほどまでにオークションで人気なのでしょうか。
ピカソを不世出の芸術家にしている要因の一つは、その作品の多さにあります。
作品数が多いということは、それだけ傑作の数も多くなります。さらに、常にどこかのオークションやギャラリーで作品が売買されることになるので、人目に触れたり、話題になることが多くなり、宣伝効果も高まります。多作であることが、ピカソ作品の価値を高めているのです。
一般的には、作品点数が少ないほうが希少価値が高まると考えがちなものです。ところが、実際はその逆で、作品点数が少なすぎると取引される機会が少ないために、逆に商業的価値が下がる傾向にあります。

 

 

 

 

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「アルジェの女たち」

 

 

 

 

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もっと詳しく知りたい方は・・・

『「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画』(幻冬舎刊)

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