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パブロ・ピカソ 作品販売|版画・セラミック
翠波画廊では、パブロ・ピカソの版画・セラミック作品を中心に販売しています。 リトグラフ、銅版画、リノカット、挿画本、水彩・素描など、20世紀美術を代表する巨匠ピカソの多彩な作品をご紹介しています。
作品の価格、制作年代、技法、サイン、エディション、カタログ・レゾネ、鑑定資料、来歴、保存状態を確認し、初めてピカソ作品を購入される方にも分かりやすくご案内しています。
パブロ・ピカソの作品一覧
298件中
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ピカソの価格帯と選び方

・リトグラフ・銅版画などの版画作品
ピカソはリトグラフ、エッチング、アクアチント、ドライポイント、リノカットなど、数多くの版画技法に取り組みました。
挿画本など比較的手頃な作品では10万円台から、直筆サイン入りのオリジナル版画では数十万円から数百万円程度が一つの目安です。
「ヴォラール・スイート」「347シリーズ」などの重要な連作、限定部数が少ない作品、人気の高いモチーフでは、数百万円から1,000万円を超える場合もあります。
・セラミック作品
ピカソは1940年代後半から南フランスのマドゥーラ工房で陶芸制作に本格的に取り組みました。
皿、壺、ピッチャー、花瓶など多彩な作品があり、一般的な限定セラミックでは100万円から500万円程度が一つの目安です。
限定部数が少ない大型作品や希少な図柄では、1,000万円を超える場合もあります。
・水彩・パステル・素描
ピカソ本人が直接描いた水彩、パステル、鉛筆、インクなどの一点物は、版画とは異なる価格帯になります。
小品でも数百万円以上になることがあり、制作年代やモチーフ、来歴によっては数千万円規模となります。
・油彩作品
ピカソの油彩は世界の美術市場でも最も高額な分野の一つです。
制作年代、作品の質、モチーフによって価格差が極めて大きく、重要な「青の時代」「キュビズム」などの作品では数十億円からさらに大きな価格になることがあります。
ピカソの場合、「ピカソならいくら」と考えるのではなく、作品の種類、制作年代、技法、モチーフ、美術史上の位置づけを一作品ずつ見ることが重要です。
ピカソ作品の購入ポイント
1.まず作品の種類を確認する
ピカソには、油彩、水彩・素描、リトグラフ、銅版画、リノカット、挿画本、セラミックなど、非常に多くの作品があります。
一点物を重視するのか、ピカソらしい線や造形を版画・セラミックで楽しむのかによって、作品選びは大きく変わります。
2.制作年代を見る
ピカソは長い生涯の中で何度も作風を変化させました。
青の時代、ばら色の時代、キュビズム、新古典主義、晩年など、制作年代によって作品の位置づけは大きく異なります。
版画やセラミックについても、いつ制作された作品なのかを確認することが大切です。
3.ピカソらしいモチーフから選ぶ
ピカソには、女性・人物、画家とモデル、闘牛・闘牛士、ミノタウロス、鳩、フクロウ、顔、静物など、繰り返し登場する代表的なモチーフがあります。
「一目でピカソと感じられる作品」を選ぶことも、長く楽しめる作品選びの一つです。
版画では、直筆サイン、エディション、技法、制作年、版元・工房、カタログ・レゾネなどを確認します。
リトグラフではMourlot、版画全般ではBlochやBaerなどの作品番号が国際市場でも参照されています。
セラミックでは、Alain Ramiéによるカタログ・レゾネの作品番号が重要な確認資料となります。
5.保存状態を見る
版画ではシミ、ヤケ、退色、折れ、余白の状態などを確認します。
セラミックでは、欠け、ひび、修復、釉薬や絵付けの状態を確認します。
制作から数十年以上経過した作品も多いため、単純に「傷があるか」だけでなく、その年代の作品としてどの程度良好な状態かを見ることが重要です。
ピカソ作品の真贋と保証について

現在、Picasso Administration内には「Le Comité Picasso」が設置され、提出された作品について真正性に関する意見を示す仕組みがあります。
肉筆作品では、制作年代、技法・サイズ、サイン、来歴、展覧会歴・文献掲載、カタログ・レゾネ、鑑定資料などを総合的に確認します。
版画では、作品ごとにBloch、Mourlot、Baerなどのカタログ番号を確認します。
例えば、ピカソのリトグラフについてはBloch番号とMourlot番号が国際的なオークションでも作品確認資料として用いられています。
セラミックについては、Alain Ramié『Picasso: Catalogue of the Edited Ceramic Works 1947–1971』が重要なカタログ・レゾネです。
翠波画廊では、これらの資料や来歴を作品ごとに確認し、真作と判断したピカソ作品のみを真作保証付きで販売しています。
ご購入に安心の3つの保証
保証1
真贋には細心の注意を、真作保証
取り扱う作品は真作と判断した
本物の作品だけをご案内しております
保証2
ご購入後30日以内の返品保証
部屋に飾って合わない場合、
ご購入後30日以内でしたら返品を承ります
ピカソ作品でよくあるご質問
ピカソの代表的な版画技法は何ですか?
リトグラフ、エッチング、アクアチント、ドライポイント、リノカットなどです。ピカソは版画を単なる複製手段ではなく、独立した表現方法として積極的に活用しました。
ピカソのオリジナル版画とは何ですか?
ピカソが版画作品として制作に関わり、生前に正式に制作されたリトグラフ、銅版画、リノカットなどを指します。完成した油彩を後から印刷した複製画とは異なります。
ピカソの版画には必ず直筆サインがありますか?
いいえ。直筆サイン入りの限定版画もありますが、挿画本に収録された版画など、もともと一枚ずつサインを入れることを前提としていない真正な作品もあります。
ピカソのセラミックは本人がすべて一つずつ制作したものですか?
一点物の陶芸作品もありますが、マドゥーラ工房でピカソの原型やデザインをもとに限定制作されたエディション作品も多数あります。作品ごとに制作方法と限定部数を確認することが重要です。
マドゥーラとは何ですか?
南フランス・ヴァロリスにあった陶芸工房で、ピカソは1940年代後半から長年にわたり同工房と協働して多数のセラミック作品を制作しました。
ピカソ作品のカタログ・レゾネとは何ですか?
ピカソ作品を技法別などに体系的に記録した作品総目録です。版画ではBloch、Mourlot、Baer、セラミックではAlain Ramiéなどの資料が広く参照されています。
ピカソ作品の本物はどのように確認しますか?
制作年代、技法、サイズ、サイン、エディション、版元・工房、カタログ・レゾネ、来歴、鑑定資料などを総合的に確認します。
ピカソの版画と複製画は何が違いますか?
オリジナル版画は、ピカソが版画作品として制作に関わった作品です。複製画は、すでに存在する絵画などを後から印刷技術によって再現したものです。
東京・大阪で実物を見ることはできますか?
はい。在庫作品は東京・銀座店または大阪・梅田店でご覧いただけます。作品によって展示場所が異なりますので、事前にお問い合わせください。
現在掲載されていないピカソ作品も探してもらえますか?
はい。版画、セラミック、水彩・素描など、ご希望の作品種類、モチーフ、サイズ、ご予算をお知らせいただければ、入荷や作品探しについてご相談いただけます。
【ピカソ 関連コラム】
ピカソ略歴
| 1881年 | 10 月 25 日、パブロ・ルイス・ピカソ、スペイン南部のマラガに生まれる。父ホセ・ルイス・ブラスコはサン・テルモ工芸学校の絵画教師。 |
|---|---|
| 1889年 | 最初の油彩画「ピカドール」 |
| 1891年 | 10 歳。父が西北部の港町ラ・コルーニャのダ・グァルダ美術工芸学校に職を得、一家移動。ピカソも同校に通い、やがてその絵の才能が評判になる。 |
| 1895年 | 父がバルセロナの美術学校ラ・ロンハの素描教授となり、一家は同地に移転。ピカソは規定年齢に達しないラ・ロンハの上級クラスに抜群の成績で合格する。 |
| 1897年 | 「科学と慈悲」がマドリードの全国美術展に入賞。10月、マドリードの王立サン・フェルナンド美術学院に入学する。しかし因習的な学院の指導法に退屈し、授業にはほとんど出席せず、プラド美術館に通って巨匠たちの作品を研究。 |
| 1899年 | モデルニズモは反カスティリア主義の志向が強く、スペインの古い伝統に対抗するためヨーロッパのあらゆる思想、芸術が導入されたが、ピカソは貪欲にそれらを吸収し、特にニーチェに心酔した。最初の銅版画「左利きの男」を制作。 |
| 1900年 | 学芸評論雑誌『ホベントゥート』に素描を掲載。アトリエを共にしていた画家カサヘマスと、万国博覧会の開かれているパリを訪れる。パリで「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」をはじめ、印象派的、後期印象派的タッチで多数の絵画を描く。 |
| 1901-04年 | 青の時代 20歳を過ぎたころ、親友カサヘマスの自殺をきっかけに、作品からは明るい色彩が消え、青が多用された時代。生と死や貧困、社会の底辺に生きる人々を題材にした作品を描いた。 |
| 1901年 | ピカソ20歳。マドリードで文学者フランシス・ソレルと共同で『アルテ・ホベン(若き芸術)』を発刊(創刊号のみ)。バルセロナのパレ画廊でピカソのパステル画展。友人カサヘマスがパリで自殺。春遅くパリ再訪。6月、アンブロワーズ・ヴォラールの画廊でやはりスペインの画家イトゥリーノとの二人展。詩人のマックス・ジャコブを知る。 <青の時代>開始 「青い部屋」を描く。 |
| 1902年 | 1月、バルセロナに戻る。4月、パリのベルト・ヴェイユ画廊にて個展。10月、再びパリへ行き、マックス・ジャコブの部屋に居候、夜間制作し、昼マックスが勤めに出た後のベッドに寝る。 |
| 1903年 | バルセロナに戻る。<青の時代>は頂点に向かう。「ラ・ヴィ」を完成後、エル・グレコ風のマニエリスム的人物表現の開始。「ギターを弾く老人」を制作。 |
| 1904-07年 | バラ色の時代 モンマルトルのアトリエ、洗濯船に移り住み、恋人フェルナンド・オリヴィエとの出会いから、明るく温かみのある色彩を取り戻した時代。オリヴィエをモデルにした作品や、サーカスの道化師、家族、兄弟、少女、少年などを描いた。 |
| 1904年 | 4月、4度目のパリ、モンマルトルの丘の中腹にあった貧乏芸術家の長屋<洗濯船>に定住。フェルナンド・オリヴィエと同棲。詩人ギョーム・アポリネール、アンドレ・サルモンらと親交を結ぶ。 <青の時代>終わる 銅版画「貧しき食事」を制作。 |
| 1905年 | サーカスに通い軽業師やアルルカンの世界を描く。 抒情的な<ばら色の時代>開始。 「サルタンバンクの家族」を制作。夏、オランダ旅行。レオ、ガートルード・スタイン兄妹がピカソの作品を買い始める。 |
| 1906年 | ギリシア彫刻の研究から個展主義的傾向に移る。フェルナンドとスペインに生きピレネー山中の村ゴソルで生活。この間にイベリア彫刻の影響が表われる。パリに戻る。「ガートルード・スタインの肖像」を制作。「アヴィニョンの娘たち」の制作にとりかかる。 |
| 1907-09年 | アフリカ彫刻の時代 アフリカ彫刻の影響を強く受けた時代。キュビズムの端緒となる『アヴィニョンの娘たち』が生まれた。 |
| 1908-18年 | キュビズムの時代 キュビズムとは・・・ 従来の絵画は描こうとする対象を一面的に捉えて、2次元上のキャンバスに写し取るという1点透視図法で描いていた従来の絵画に対して、描こうとする対象の特徴がこちら側を向けていなくてもいろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めるという方法。キュビズムはルネッサンス以降用いられてきた1点透視図法を無視して生み出された、美術史において革新的な技法となりました。 目に入る視覚的な対象を描くのではなく、自分の理解している対象を頭の中で組み立てて絵にするという、今では一般的な描くための方法を最初に行い、この新しい表現方法は後に続く画家に多大な影響を与え、描くための画家のコンセプトこそが何よりも優先される現代美術に受け継がれています。 |
| 1907年 | 「アヴィニョンの娘たち」完成。アポリネールを介してブラックと知り合う。いわゆる<ニグロの時代>開始。パリに画廊を開いたドイツ人の若い画商ダニエル=ヘンリー・カーンワイラーと親しくなる。 |
| 1908年 | キュビズムの開始。ブラックも同調し、以後二人は手を取り合ってキュビズムの造形探究を進める。物体の形態、ヴォリュームを単純な幾何学的量体に還元するいわゆる<セザンヌ的キュビズム>(―1909)の時代に移行。<洗濯船>のアトリエで税関吏ルソーのための宴会を開く。 |
| 1909年 | ヴォラールの画廊で個展、またドイツで初めての個展。<分析的キュビズム>へ移行、「ヴォラールの肖像」(―1910)。 |
| 1910年 | ジャコブの『サン=マトレル』のための挿絵を制作。 |
| 1911年 | ピカソ30歳。ニューヨークで最初の個展。 |
| 1912年 | マルセル・アンベール(エヴァ)と知り合い、フェルナンドと別れてモンパルナスに転居。<総合的キュビズム>に移行。最初のパピエ・コレの作品「籐椅子のある静物」。ミュンヘンの<青騎士>展に参加。 |
| 1913年 | ブラック、レジェ、ドランらと旅行し一緒に制作する。バルセロナで父ホセ死去。 |
| 1914年 | ベルリン、ドレスデン、ミュンヘンで個展。第一次世界大戦が勃発し、運動としてのキュビズムは終わる。エヴァと共にアヴィニョンに戦禍を避けたが11月にパリに戻る。 |
| 1917年 | ジャン・コクトー作の前衛バレエ『パラード』でディアギレフのロシア・バレエに協力し、舞台装置と衣装デザインを担当。 ロシア人のバレリーナ、オルガ・コクローヴァと親しくなる。 |
| 1918-25年 | 新古典主義の時代 1920年代、新古典主義を模して、古典的で写実的な人物画を多く描いた時代。 妻オルガと息子パウロをモデルに描いた、量感のある母子像が有名。 |
| 1918年 | オルガと結婚。<新古典主義>の様式を開始、キュビズムと並行させる。第一次大戦終結し、ラ・ボエティー街の豪華なアトリエに移る。画商ポール・ローザンベールと契約。 |
| 1919年 | ロンドンへ行きロシア・バレエの『三角帽子』(音楽はデ・ファリャ)の舞台、美術を担当。 ロンドンで個展。 |
| 1921年 | ピカソ40歳。2枚の「三楽師」により1907年の「アヴィニョンの娘たち」に端を発した長期にわたるキュビズムの造形探究は完結を見る。 |
| 1924年 | エティエンヌ・ド・ボーモン伯爵主催の「ソワレ・ド・パリ」におけるバレエ『メルキュール』の美術を担当。 これは、ピカソが重要な役割を果たした舞台芸術の最後となる。 |
| 1925-36年 | シュルレアリズムの時代 シュルレアリズムとは・・・ シュルレアリズムとは、第一次世界大戦後におこった文学や芸術の革新運動。「無意識」の領域を表現することで、本当の自己や思想を表現しようとした考え方。ピカソのシュルレアリズムは、非現実的で化け物のようなイメージが多く描かれた時期で、妻オルガとの不仲が反映しているとも言われています。代表作は「ダンス」「磔刑」など。 |
| 1927年 | 「三人の舞踏者」により独自のシュルレアリズム開始。第1回シュルレアリズム展に参加。バルザック作『知られざる傑作』の挿絵を制作(―1931)。 |
| 1928年 | スペイン人の彫刻家、フリオ・ゴンサレスの影響で彫刻の制作を再開(1905年の「道化師」以来、「女の頭部」1909、「アブサント・グラス」1914などいくつかの作品がある)。アンドレ・ブルトンの『シュルレアリズムと絵画』に15点の作品が紹介される。 |
| 1930年 | 「オルガ・ピカソの肖像」でカーネギー賞受賞。「ヴォラール・セット」の銅版画制作開始(―1937)。 |
| 1931年 | ピカソ50歳。オヴィディウス『変身譚』の挿絵。 |
| 1932年 | オルガとの間が破綻に向かう。マリー=テレーズ・ワルテルと共同生活。 「鏡の前の女」を制作。カイエ・ダール社のゼルヴォスがピカソ作品のカタログ・レゾネ第1巻を出版。 |
| 1933年 | ブルトンのシュルレアリズムの雑誌『ミノトール』の表紙のためにエッチング制作。これが機でミノタウロスの連作を素描と版画で行う。 |
| 1934年 | 「リシストラータ」 銅版画 1,500部 ギリシャの劇作家アリストファネスの戯曲「リシストラータ」を、ピカソの友人ジルベール・セルドが、英訳しピカソが6枚の銅版画を付した作品。物語は、アテネとスパルタの絶えざる戦いに倦んでしまったリシストラータを首謀者とする両サイドの女たちが、平和を求めて、夫たちの愛の求めを拒絶するという、一種のストライキを行う喜劇であり、根負けした男どもがついに休戦に応ずるという内容である。アメリカの出版社リミティッド・エディション・クラブ社から、1500部が挿絵本として、150部がワイドマージンの版画として刊行。今日では150部の方は入手困難で、一般に出回っているのは挿絵本のなかのオリジナル版画をばらして額装したしたものがほとんどである。 |
| 1935年 | オルガと離別(離婚は成立せず)。マリー=テレーズとの間に長女マイヤ誕生。 『カイエ・ダール』誌にシュルレアリズム的詩を発表。 |
| 1936年 | スペイン各地で巡回展。7月、スペイン内戦始まり人民戦線政府からプラド美術館長に任命される。 |
| 1937年 | エッチング「フランコの夢と嘘」を制作し独裁者フランコを攻撃する。バスク地方のゲルニカが親フランコのドイツ機によって爆撃される。6月、パリ万国博スペイン共和国館のために「ゲルニカ」を描く。 |
| 1938年 | 「ゲルニカ」がノルウェー、イギリス、アメリカを巡回。 |
| 1939年 | ニューヨーク近代美術館で「ピカソ芸術40年展」364点が出品される。 |
| 1940年 | ドイツ軍占領下のパリに戻る。ナチスへの協力を拒み作品の公開を禁止される。 |
| 1941年 | ピカソ60歳。戯曲『尻尾をつかまれた欲望』を書く。 |
| 1944年 | 8月、パリ解放。フランソワーズ・ジローと出会う。ナチス占領下における地下運動に共感しフランス共産党に入党。サロン・ドートンヌで占領中のピカソの作品が公開される。この頃から主として南仏で制作する。 |
| 1946年 | フランソワーズとの生活始まる。南仏におけるもうひとつの根拠地、ゴルフ・ジュアンから3マイルほど離れた陶器と香水の産地、ヴァローリスを訪れ、そこにマドゥーラ窯を構えるジョルジュ・ラミエ夫妻と懇意になり、粘土で2、3の試作をする。 |
| 1947年 | ヴァローリスを訪れ昨年の粘土の試作が焼成されているのを見て、陶芸に熱中するようになる。彼の独創的な作品は注目を浴び、若い陶芸家たちがその指導を求めるようになる。ピカソはこうしてヴァローリスの陶器産業を復興させた。 |
| 1948年 | 戯曲第2作『四人の少女』を書く。パリのメゾン・ド・ラ・パンセ・フランセでピカソの陶芸展、149点が展観される。 |
| 1948年 | 「ゴンゴラの詩」 銅版画 275部 ポスト・モダンの父といわれる16世紀スペインの詩人ルイス・デ・ゴンゴラのソネット20篇を、ピカソがすべて自身の手写で収録、挿絵を加えた作品。1948年にパリで275部の豪華限定版として刊行された。各ソネットの前には女性の頭部が合計19点、1番目のソネットにはゴンゴラの肖像画が(1622年に若きヴェラスケスが描いたものを元に)描かれる。 ピカソによるソネットの手写は、内容によって字体や筆圧まで変わっており、各ソネットに対する理解の深さが感じられる作品。20篇のソネットは制作年もジャンルもばらばらだが、ゴンゴラの詩を読み、そこに添えられた挿絵をみていくと、全体の流れは一人の人間の生涯に近いといえる。『ゴンゴラ』は、人間ピカソの心の記録であり、魂の表現であったと言える。 |
| 1949年 | 4月、次女パロマ誕生。アラン・レネ、映画『ゲルニカ』制作。 |
| 1950年 | 朝鮮戦争に反対して「朝鮮の虐殺」を制作。このころから彫刻も多く制作する。「山羊」、「縄跳びをする少女」。彫刻「羊を抱く男」をヴァローリス市に寄贈。同町の名誉町民となる。ピカソ原作の陶器を複製化することが、彼の了承のもとに始まる。 |
| 1951年 | ピカソ70歳。東京で初めて個展。 |
| 1952年 | <平和の殿堂>のための壁画「戦争」、「平和」を制作。 |
| 1953年 | ニューヨーク近代美術館で「ピカソ芸術40年展」364点が出品される。 |
| 1954年 | 「人間喜劇」 リトグラフ(石版画) ラージ “世界で最も美しい雑誌”と呼ばれた、テリアド社出版の豪華美術雑誌「ヴェルヴ」のピカソ特集号に収められたリトグラフ作品12点。 |
| 1957年 | ニューヨークで「ピカソ75歳記念」の大回顧展。「ラス・メニーナス」の大連作を制作。 |
| 1959年 | 「カリフォルニーの手帖」 リトグラフ(石版画) 1,500部 ピカソ73歳のときにカンヌ郊外のラ・カリフォルニーに別荘を購入し、アトリエとして使用した。「カリフォルニアの手帖」は、その別荘兼アトリエで、ピカソが1955年11月1日から1956年1月14日の間にスケッチブックに描いた素描をもとに制作されたリトグラフ入りの本で、パリのEditions Circle d’Art社から1959年に刊行された。 |
| 1961年 | ピカソ80歳。ジャクリーヌと正式に結婚。カンヌの北にあるムージャンに<ノートル=ダム=ド=ヴィ>を買い、そこに住む。 |
| 1963年 | サバルテスが尽力したバルセロナのピカソ美術館開館。 |
| 1964年 | 東京国立近代美術館、京都国立近代美術館で回顧展。ニューヨークの世界博覧会に、フランコ政府が初めてピカソの作品の貸し出しを許可する。 |
| 1966年 | パリのグラン・パレ、プティ・パレ、国立図書館その他で、文部省主催の「ピカソ生誕85周年記念大回顧展」開催。グラン・パレに絵画、プティ・パレに素描、彫刻、陶芸が展示される。 |
| 1967年 | ロンドンのテート・ギャラリーでピカソの彫刻、陶芸展。 ニューヨークなど各地で生誕85年記念展。 |
| 1968年 | 「347シリーズ」銅版画 50部 ピカソの晩年、1968年に制作した347点の連作。女性に対する「愛」がテーマとなった作品。86歳という高齢にもかかわらず、204日間という短期間に347作が制作されたといわれ、ピカソの創作への意欲が感じられる。 |
| 1969年 | 「想像の中の肖像」 リトグラフ(石版画) 250部 29枚からなる版画シリーズ。ピカソは南仏へ引っ越の際、 梱包後のダンボールに創作意欲をかき立てられ、次々に29枚の作品をグワッシュで描き、それを版画にしました。王様の肖像画から独自のイメージを発展させた、斬新でキュビズムを連想させるピカソらしい作品。 |
| 1970年 | アヴィニョンのクレメンス教皇礼拝堂で展覧会。 |
| 1971年 | パリ国立近代美術館で生誕90周年の大回顧展。また世界各地で記念展。 |
| 1973年 | 4月8日、ムージャンの<ノートル=ダム=ド=ヴィ>で91歳の生涯を閉じる。 |