藤田嗣治(レオナール・フジタ、FOUJITA Tsuguharu) 作品販売
藤田嗣治(レオナール・フジタ)絵画作品販売
藤田嗣治、人気の猫や少女のほか、代表作の乳白色時代の作品、資産としての価値も高い油絵や、
水彩、素描、さらにはサイン入りオリジナル版画など、本物だけを取り揃え販売しております。
フジタ作品のご購入をご検討でしたら、値段などお気軽にお問い合わせください。
藤田嗣治(レオナール・フジタ)の作品一覧
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藤田嗣治の魅力|なぜ世界中で愛され続けるのか

藤田嗣治を語るうえで欠かせないのが、「乳白色の肌」と呼ばれる表現です。女性の肌の「質」や「柔らかさ」を表現するために、技法と画材の試行錯誤を経て生まれた藤田独自の手法です。「グラン・フォン・ブラン(素晴らしき白の下地)」と称されたその表現は、特に油彩作品の絵肌によく表れており、実物を鑑賞してこそ、より乳白色の魅力を感じることができます。生前語られることのなかった「乳白色」の手法は長年謎に包まれていましたが、近年は解明が進み、現在も多くの専門家が藤田に注目しています。 手製のなめらかな下地、筆の繊細な輪郭線、そしてこの「乳白色」の肌。これらの表現を組み合わせることで、藤田にしか描けない気品ある人物像が確立されました。

藤田の代表的なモティーフである猫や少女、子どもを描いた作品は、藤田作品を初めて購入する方の入口としてお勧めです。「猫の画家」とも呼ばれる藤田は、鋭い観察眼とユーモアを活かして、猫の姿を愛らしく生き生きと描き続けました。少女や子どもの作品には、愛らしさと同時にどこか静かな気品があります。また、洗練された線や余白、奥行きを感じる表情は、いつまでも見飽きることのない藤田作品の大きな魅力の1つです。

藤田は1920年代中頃から、版画制作にも力を入れ始めます。油彩で確立した乳白色の下地を版画でも実現するべく、貪欲に様々な版画技法に取り組んだ結果、表現者「画家にして版画家」(パントル・グラヴュール)としてさらなる飛躍を遂げました。リトグラフや銅版画、木版画では、細い線や余白の表現など藤田らしい魅力が強く活かされています。また、《小さな職人》や《四十雀》をはじめとする挿画本では、ユーモア溢れる表情や豊かな色彩から、物語の世界を深く堪能することができます。版画作品は、油彩や水彩などの一点物の絵画に比べて検討しやすい価格帯のものが多いため、初めて作品を購入する方にもおすすめの選択肢です。

藤田嗣治は、日本で培った繊細な美意識を携えながら、近代芸術の中心地パリにおいて世界中の画家から多様な刺激を受けました。1913年に渡仏して以降、ピカソのキュビスムをはじめとするパリの前衛芸術に大きな衝撃を受けました。一方で、周囲の流行にとらわれることなく、独自の手法を模索し続けました。藤田が愛用した面相筆は、単に日本の美術様式をなぞるのではなく、藤田自身の感性と尽力によって存分に線描の魅力へと活かされています。この「日本的な繊細さ」と「パリの近代性」の融合によって生み出された表現こそ、藤田作品が世界中で評価され続ける理由の一つです。

藤田嗣治は、生前から高く評価され、現在も世界中の美術館やコレクターから注目され続けています。特に近年では価格が急上昇した例がいくつか見られます。2016年4月3日の香港のオークションで、「猫とヌード」100号作品が日本円で約5億7千万円で落札され話題となりました。これは実は2014年の3月にロンドンで開催されたオークションで、日本円で約2億5千6百万円で落札されていたものでした。2年で約2倍の価格上昇となったものです。ほかにも2018年10月11日イギリス、ロンドンのオークションでは「La fête d’anniversaire」)誕生日パーティ)が、オークション会社の当初の見積もりよりも5~8倍上昇し、約10億円で落札されました。これは、これまでに落札された藤田嗣治の作品の中でも最高価格に当たります。このように世界的に価値のある藤田の肉筆作品は、資産としてのご購入もお勧めできます。
藤田嗣治作品の価格帯と選び方|油彩・水彩・素描・版画の違い

藤田嗣治の値段について

藤田は、間違いなく日本が誇るべき世界的な画家です。日本人の近代画家の中で、世界的に評価をされていて、海外のオークションでも高値がつくのは藤田嗣治ただ一人といっても過言ではないでしょう。
裸婦や猫は藤田の得意な画題で、かつ全盛期でサイズも大きい絵画とはいえ、1枚で5億円を超えるような日本人画家は他にはいません。藤田嗣治についての評価は、日本の美術界において、できれば避けたい鬼門のようなものになっています。その業績にはいくつもの曖昧さがついて回るからです。 生前にはそれでもいくつかの画集が発行されていたのですが、死後はその海外の名声に比して、忘れられた画家になっていったのです。藤田は、現在でこそ再評価の機運が高まっていますが、いまだ正当な評価を受けているとはいえません。 たとえば、晩年に数多く描いた女の子の絵などは、その多くが3号以下とサイズの小さなものが、2016年現在でも2000万~3000万円くらいで取引されています。藤田の業績からすると、もっと高くてもいいのではないかと思います。
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藤田嗣治作品でよくあるご質問
藤田嗣治作品はいくらから購入できますか?
藤田嗣治作品の価格は、技法や作品内容によって大きく異なります。版画作品や挿画本由来の作品は比較的検討しやすい価格帯のものもあります。一方で、油彩、水彩、素描などの一点物は、制作年、モチーフ、状態、鑑定書、来歴などによって価格が大きく変わります。最新の販売価格は、お問い合わせにてご確認ください。
初めて藤田嗣治作品を購入するなら、どの作品がおすすめですか?
初めての方には、版画作品がおすすめです。比較的お手頃な価格のものが多いため、子供や猫などの人気モチーフも検討しやすくなっております。ご予算や飾る場所に合わせて、挿画本や水彩、素描などからもご提案いたします。
藤田嗣治の版画と原画は何が違いますか?
原画は、油彩、水彩、素描など作家が直接手を入れた一点物です。一方、版画はリトグラフ、銅版画、木版画など、版を用いて制作された作品で、限定部数やシリーズ、サインの有無などによって評価が異なります。版画は藤田作品を比較的身近に楽しめる選択肢として人気があります。
実物を見ることはできますか?
作品一覧に掲載されている作品は、東京・銀座店や大阪・梅田店にて現品をご覧いただけます。ご来店前に在庫状況をご確認いただくと、スムーズにご案内できます。
価格が「お問い合わせ」になっているのはなぜですか?
藤田嗣治作品は、作品状態、市場動向、来歴、鑑定書、希少性などによって価格が変動する場合があります。そのため、最新の販売価格や詳細条件は個別にご案内しています。気になる作品がございましたら、お気軽にお問い合わせください。
鑑定書は付いていますか?
油彩、水彩、素描などの肉筆作品については、鑑定書付きの作品を中心にご案内しています。版画作品については、作品の種類によって鑑定書が発行されない場合があります。その場合でも、来歴、挿画本、レゾネ、状態などを確認しながらご説明いたします。
購入後の相談はできますか?
作品の飾り方、額装、保管、将来の下取りや買い替えなどもご相談いただけます。初めて藤田嗣治作品を購入される方にも、安心して選んでいただけるようご案内いたします。
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藤田嗣治(レオナール・フジタ)略歴
| 1886年 | 明治19年11月27日東京市牛込区新小川町に生まれる。 |
|---|---|
| 1905年 | 東京美術学校予備科に入学。東京美術学校西洋画科に入学する。 |
| 1910年 | 東京美術学校西洋画科本科を卒業する。 |
| 1913年 | 門司から日本郵船三島丸で渡仏。年末にモディリアーニ、スーチンと知り合う。 |
| 1919年 | 初めてサロン・ドートンヌに出品。出品した6点が全部入選し、その年に会員に推挙され、パリ画壇における地位の確立に第一歩を踏み出す。 |
| 1920年 | 渡仏以来の研究の結晶である裸体を秋のサロンに出品する。 |
| 1921年 | サロン・ドートンヌの審査員に挙げられる。 |
| 1923年 | サロン・デ・チュイルリーの会員となる。 |
| 1925年 | レジオン・ドヌール五等勲章を贈られる。 |
| 1927年 | 銅版画1点、ルーブル美術館に収められる。 |
| 1929年 | 17年ぶりに帰国。東京朝日新聞社屋で個展を開催する。 |
| 1930年 | パリに帰る。ニューヨークに渡って個展を開き、またグリニッチ・ビレッジにアトリエを借りて3ヶ月間制作を行い、さらにシカゴに1ヶ月滞在する。 |
| 1931年 | ヨーロッパでは不況とナチズムの台頭で排外主義が高まり、パリでの生活基盤を放棄してマドレーヌを伴い中南米の旅に出る。 |
| 1933年 | 帰国する。 |
| 1935年 | 大阪の百貨店の食堂に壁画、銀座の喫茶店コロンバンに天井画を制作。(コロンバンの天井画はその後1975年に、迎賓館に寄贈される。) |
| 1936年 | 外務省からの依頼を受け対外日本宣伝用映画「風俗日本」を完成させる。また自著「腕一本」が出版される。 |
| 1937年 | 秋田の平野政吉の依頼により大壁画(秋田の行事)を描く。 |
| 1940年 | 第2次世界大戦の戦火迫るパリを脱出し帰国する。 |
| 1941年 | 帝国芸術院会員に推挙される。「作戦記録画」の制作と発表が本格化し、そのための戦線取材にも派遣が続く。 |
| 1942年 | 開戦1周年記念の第一回大東亜戦争美術展(12月8日の真珠湾)(シンガポール最後の日)に出品する。 |
| 1943年 | 戦争画「アッツ島玉砕」を発表する。 |
| 1945年 | 敗戦。敗戦直後からにわかに軍に加担し戦争画を描いた画家たちにも戦争責任が課せられるのではないかといううわさが広がり始める。しかし、画壇での責任追及はGHQに追及されることを恐れた日本人の側から始まる。敗戦の2ヵ月後には朝日新聞に「美術家の節操」と題して藤田を激しく批判する文章が記載される。その後も戦争責任をめぐる議論として「文化人の蛮勇、期待、粛清、自らの手で」と刺激的な記事が朝日新聞に掲載される。軍国主義的風潮の助長を「指揮」したボス的存在は徹底的に排除されねばならぬと美術界でも戦争責任を負うべき画家を自らの手で追放しようと動き始める中、藤田にその矛先が向けられる。そんな中、戦争責任をめぐって混迷を繰り返した画壇に「絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないで下さい。日本画壇は早く世界水準になって下さい」と捨てぜりふを残し日本を後にする。 |
| 1947年 | ニューヨークのケネディ画廊で近作の展覧会が開催され、好評を博する。 |
| 1949年 | 代表作の一つとなる「カフェにて」を制作。アメリカ入国、ニューヨークに定住。当時、現地で画家として成功していた国吉康雄とアメリカの日系人たちは「敵性外国人」として白眼視される中「戦争」を拭い去ろうと懸命な苦闘をしていた。そこに現れた戦争画の藤田は厄介な闖入者で到底受け入れることはできなかった。新天地であるはずのアメリカでも孤独感を強めていく。藤田は滞在一年にも満たずアメリカを離れることになる。 |
| 1950年 | パリに戻りモンパルナスに定住する。 |
| 1951年 | 秘蔵の労作「我が室内」「アコーデオンのある静物」等をパリの国立近代美術館に寄贈する。藤田65歳の誕生日を祝してルネ・エロン・ド・ヴィルフォスの著書に藤田がエッチングと一部には彩色をほどこした26点の挿画が入った「魅せられし河」(出版ベルナール・クライン)が出版される。今では高級ブティックが立ち並ぶフォーブール・サントノーレ通りに関する本で瀟洒な館が立ち並ぶ美しい街並を魅せられたる河のようだと表現した著者のイメージにふさわしく、藤田による風景やそこに集う人々がいきいきと表現された名作である。 |
| 1955年 | フランス国籍を取得、日本国籍を抹消する。日本芸術院会員を辞退する。 |
| 1959年 | 北フランス・ランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受ける。洗礼名レオナール。 |
| 1960年 | パリの風俗をテーマとしたアルベール・フルニエとギイ・ドルナンのテキストに藤田の21点の多色刷り木口木版の挿画が入った、小さな職人「しがない職業と少ない稼ぎ」(出版ピエール・タルタス)が出版される。生涯、自分のことを職人だと自認していた藤田がパリの街角でひっそりと、しかしながらたくましく生きている職人たちを子供に演じさせて親愛と敬意をもって表現する。 |
| 1961年 | パリ郊外ヴィリエ・ル・バクルに農家を改造して転居する。 |
| 1963年 | ジャン・コクトーのテキストに藤田の挿画がリトグラフで21点入った「四十雀」(出版ピエール・タルタス)が出版される。フランスにおける伝統的な職業や風物、建物などがつづられたフランスにまつわる内容の作品である。 |
| 1966年 | 第2回近代日本洋画名作展に出品する。洗礼を受けたランスに礼拝堂「ノートル・ダム・ドゥ・ラ・ペ(平和の聖母)」が完成し、教会内のフレスコ画を制作する。 |
| 1968年 | 1月29日、81歳、スイス、チューリッヒにて没する。遺体はノートルダム・ド・ラ・ペ礼拝堂に埋葬される。墓所はランスのノートル・ダム・ドゥ・ラ・ペ礼拝堂である。 |