永遠を閉じ込めた絵画
~ヤン・ファン・エイク《ファン・デル・パーレの聖母子》
ヤン・ファン・エイク《ファン・デル・パーレの聖母子》を求めて
かねてより私は、ベルギーの古都ブルージュを一度は訪れたいと思っていました。
「中世の面影を色濃く残す、とても美しい街だ」と聞いていたからです。
運河が縦横に走り、石畳の道の両脇に煉瓦造りの家々が静かに並ぶ。遠くから鐘楼の音が響き、街全体が中世の空気をそのまま今日に伝えている。
そんな風景を、いつか自分の目で見てみたいと願っていました。
しかし、今回ブルージュを訪れた最大の目的は、グルーニング美術館に所蔵されるヤン・ファン・エイクの名作《ファン・デル・パーレの聖母子》をぜひ直に見たいという思いでした。
その念願を果たすべく、パリ出張の合間に休みを取り、1泊2日の小旅行としてブルージュ行きを決めました。
静謐な絵画の中に迷い込むブルージュ
パリ北駅からTGVでブリュッセル南駅まで向かい、そこで在来線に乗り換えて約2時間、Bruges駅(フランス語読みではブルージュ、オランダ語ではブルッへ)からは歩いて10分ほどで旧市街に入ることができます。
一歩足を踏み入れると、近代都市の喧騒から切り離され、街全体が静謐な絵画の中に閉じ込められているかのようでした。
運河沿いの小径を歩き石橋を渡るたびに、光と水と石が織りなす色彩がわずかに変化していき、この街そのものがすでに一枚の絵画のようです。
ファン・エイクとの「邂逅」
ヤン・ファン・エイク《ファン・デル・パーレの聖母子》念願のグルーニング美術館に入り、最初の展示室へ進むと、そこに旅の最大の目的であるヤン・ファン・エイク《ファン・デル・パーレの聖母子》が静かに私を待っていました。
この絵は、ブルッヘ出身の聖職者ヨリス・ファン・デル・パーレが自身の墓碑祭壇画用にとヤン・ファン・エイクに1434年に制作を依頼し、1436年に完成したとされる、オーク板に油彩で描かれた大作です。
作品の前に立った瞬間、思わず息を呑みました。
それは「宗教画」という枠を超え、光そのものが姿をとって現れたような荘厳な視覚体験でした。
光と質感が生み出すもうひとつの空間
甲冑部分のアップまず目を奪われたのは、向かって右奥に描かれた依頼主の守護聖人である聖ゲオルギウスの甲冑です。
金属の冷たい質感に微妙な光が反射し、画面の外の空気までも取り込んでいるかのようで、まるで画中に別の空間が生まれているような錯覚を覚えます。
左側にはブルッヘ聖堂参事会の守護聖人である聖ドナトゥス。衣に織り込まれた金糸が光を受けて細かく輝き、その立体感と存在感を際立たせています。
そして聖母がまとう深紅のビロードの衣、布の起毛した質感や重量感が、陰影の繊細な移ろいによって見事に表現され、一つの色がこれほど深みを持ちうるのかと圧倒されます。
細部に宿る真理と敬虔な精神
絨毯のほつれ部分のアップさらに、聖母の足元に敷かれた中東の絨毯の端には、わずかな糸のほつれまで正確に描き込まれています。
画家の観察力と、細部に宿る真理を捉えようとする執念がひしひしと伝わってきます。
どの部分にも手抜きがなく、「描く」という行為そのものへの敬虔な精神が画面の隅々にまで満ちていました。
また傍らにひざまずく寄進者ファン・デル・パーレの顔には、信仰の深さと人間的な弱さが刻まれており、その眼差しに静かに引き寄せられます。
見つめるほどに、この絵が描いているのは「神と人」だけではなく、「見る者自身の内なる世界」でもあることに気づかされます。
光を描くという革命
寄進者ファン・デル・パーレの顔ヤン・ファン・エイク(1395年頃–1441年)は初期フランドル派を代表する巨匠です。
ブルッヘで過ごしたわずか十年ほどの間に油彩技法を大きく発展させ、絵画表現に革命をもたらしました。
16世紀のイタリア人画家であり伝記作家のジョルジョ・ヴァザーリは、彼の革新を「油絵具の発明」と記していますが、実際には発明というより、既存の技法を極限まで洗練させたものだったようです。
幾層にも薄く塗り重ねられた油彩の層は光を吸い込み、反射し、絵肌そのものが発光しているかのように見えます。
彼はまさに「光そのものを描く」ことに成功した最初の画家だったと言えるでしょう。
作品の前に立つと、「写実」という言葉では片づけられない生命の気配を感じます。
体温、衣の重み、金属の冷たさ、それらすべてが調和し、一つの完璧な秩序を形づくっているのです。
技巧を超えて――創造された世界の秩序を描く
ガウンの裾部分のアップしかしこれは単なる技巧の誇示ではありません。
ファン・エイクが追い求めたのは、可視的な現実の奥に潜む「創造された世界の秩序」だったのではないか、
現実の細部を徹底的に見つめることで、彼は目に見えない永遠の世界を描こうとしたのではないか、
作品の前でそんな思いが自然と湧き上がってきました。
この作品が描かれたのは、イタリアルネッサンスを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチやミケレンジェロ、ラファエロが活躍する以前の15世紀前半です。
その時代にすでにこれほど完成された絵画表現が存在していたことに、驚きを禁じ得ません。
ファン・エイクは宗教画を超え、「視る」という行為そのものを神聖な営みとして提示した画家だったのだと思います。
“視ることを通して神を、そして人間を理解しようとする精神”が、彼の絵には脈々と息づいています。
光とともに街へ戻る
美術館を出て、ブルージュの運河沿いを歩くと、午後の光が石畳を金色に染めていました。
静かな風が街を包み込み、その光景が、先ほど見たファン・エイクの絵の輝きとふと重なって見えました。

翠波画廊代表 髙橋芳郎
株式会社ブリュッケ(翠波画廊)代表取締役。
美術大学卒業後、都内の画廊での修行を経て、1990年に独立。 2001年、故郷の秀峰の名を冠した「翠波画廊」をオープンさせる。
以降長きにわたり、ピカソ、マティス、藤田嗣治、ユトリロ、ローランサン等フランスの近代巨匠から、
ウォーホル、キース・へリング等現代アートまで幅広く扱う。
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ブルージュ《グルーニング美術館》
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